水晶ドクロ
ヘッジス・ドクロの伝説
1927年、フレデリック・アルバート・ミッチェル・ヘッジスは養女アンナを連れてマヤ遺跡(ルバアンタン)の発掘隊に参加した。
アンナは何か光るものを発見し、父を呼んだ。こうやって発見されたのが、今回の話の水晶ドクロである。
このドクロは「ミッチェル・ヘッジズのドクロ」または「ヘッジス・ドクロ」、「ヘッジス・スカル」と呼ばれるものである。
極めて本物の頭蓋骨にそっくりで、まるで頭蓋骨標本のようである。
調査の結果、機械加工の跡は見られなかった。このドクロを機械加工なしで作るとしたら、150年〜300年程度はかかるとみられている。
ヘッジス・ドクロの真相
この話に対して「宗教的儀式として使われるために作られたのならば、150年以上かかったとしても問題ない。」という反論もあるが、弱い反論にしかならないだろう。
「マヤの遺産」「150年以上かかる」というのは、ヘッジスがそう言っているという事以外、全く証拠も根拠も掴めない。
発見のいきさつについても、ヘッジスがルバアンタン遺跡の発掘に参加していたのは確かだが、アンナが参加していたという資料は全く無い。
ルバアンタン遺跡の発掘参加者や発掘されたものの写真は沢山残っている。
ヘッジスは確かに写真に写っているが、アンナが写っている写真は一枚も存在しないし、本来なら大発見のはずの水晶ドクロも写っていない。
しかも、ヘッジスは水晶ドクロ発見前の1926年に、発掘現場を離れイギリスに帰国していることが明らかになっている。
遺跡発掘の主要メンバーだったトーマス・ガン博士は1931年に「マヤの歴史」という本を出版しているが、水晶ドクロについて記載したことはない。
ルバアンタン遺跡の学術論文を書いているノーマン・ハモンド氏もヘッジスドクロには触れない。理由を聞かれた彼は「それはマヤとは全く関係ないからだ」と答えている。
決定的なのは、ロンドン美術館の1944年の記録に、ヘッジスが美術商シドニー・バーニー氏から水晶ドクロを400ポンドで購入した記録が残っていたことである。
そして、ヘッジスが初めて水晶ドクロの話に触れたのは1954年に出版した自伝「Danger My Ally」の初版本である(興味深いことに改訂版では水晶ドクロの話は削除されている)。
1930年代に何篇かの新聞記事とルバアンタンの発掘に触れる本を出版したにも関わらずである。
また、機械加工の跡がないと言われている水晶ドクロだが、歯の部分に回転工具によってつくられた跡がはっきり残っていた。
そして、顎の部分は金属ドリルで穴が開けられている。
さらには、近年同じような水晶ドクロを、ブラジル人の一家が半年程度でつくってしまったという。
見事な工芸品を手に入れたヘッジス親子のでっちあげた話だというのが、最終的な結論だ。
大英博物館のドクロ
メキシコのアステカ文明の工芸品とされ、1897年から大英博物館に収蔵された水晶ドクロが存在する。
ウェールズ大学教授、大英博物館科学調査部長イアン・フリーストーン博士が調査を行った結果、水晶ドクロはおそらく19世紀ブラジルの水晶を使ってヨーロッパで作られたものである可能性が非常に高いという結論に至った。
回転式の工具が用いられていることと、水晶の材質がメキシコではなくブラジルで産出されるものの特徴を持っていたことが大きな根拠である。
参考
- オカルト探偵ニッケル氏の不思議事件簿
- 新・トンデモ超常現象56の真相
- X51.ORG
- The crystal skulls of Central America, Bad Archaeology
- Crystal skull, Wikipedia, the free encyclopedia
- crystal skull, Skeptic's Dictionary